少し昔話になるが、フレンチの最高峰「アピシウス」で長年総料理長を務めていた高橋徳男氏がJR神田駅近くに具沢山のパイとスープの店を出店したということで2000年4月に取材をしたことがある。同店のような店は今でこそ「ニッチ」というが、そのユニークな専門店をオープンした経緯を話した最後に、高橋氏は神田の街についてこう語った。
「この街はね、クリスマスの時にクリスマスソングが流れないんだよ」
それは、華やかにしようという意識を欠いているという意味で言っていたようだが、筆者としては一般的なものに迎合しない頑固な土地柄と感じている。それが「神田」ならではの空気感をつくっている。近年ではワインバルやクラフトビールのレストランもオープンして、飲食店の〝厚み″が出てきた。すぐ隣の日本橋、秋葉原は大きな再開発が行われているが、その一方で神田は大がかりではないものの街の様相が変わりつつある。
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JR神田駅真下に誕生したフレンチビストロ
今年の8月、JR神田駅の真下にフレンチビストロ「Tchin-Tchin GORO」（以下、チンチンゴロー）がオープンした。間口は狭いが店内はオープンキッチンを目の前にしたカウンター席からグループ用、また20人強を収容できるパーティルームを構えるなど多様な利用動機に応えられる構成になっている。店舗規模は60坪130席と思いのほか広い。
店名の「チンチン」とはフランス語でグラスがぶつかり合う音のことで「乾杯！」と同じ言葉である。フレンチを気軽に楽しんでいただくことをコンセプトに、「フレンチおでん」を始めとした小皿料理を中心にして構成されている。中でも「ポルチーニクリームの大根」190円（税別）が定番であり看板メニューとなっている。客単価は4200円、神田界隈では高いほうだ。経営するのは株式会社スマイルリンクル（本社／東京都千代田区、代表／森口康志）である。
「この客単価は徐々に上げていきたい。最近、神田にイケてる飲食店が出店するようになりましたが、需要に対して不足しています。この店はその象徴的な店にしていきたい」と代表の森口康志氏は語る。
物件の真上が駅ということで、店舗の中に柱がたくさん存在する。造作を考えた当初は一角ずつ区切った横丁にしようと考えたが、それぞれ新規に給排水機能を取り付けることになり工事費が高額になる。そこで、後述するが「神田」におけるスマイルリンクルの将来を見据えて、自社で新しい領域にチャレンジすることにした。
アパレルのトップセールスマンから飲食業へ
森口氏は広島出身。17歳から紳士服販売店でアルバイトを行い、18歳で社員となって頭角を現し、500店舗で4000人いた販売員の中でトップとなった。
最年少の23歳で店長に就任。27歳で東京に赴任し、ここで東京に大きな可能性を感じた森口氏は起業を決意した。
創業したのは1994年２月、神田にお好み焼き店「Big-Pig」をオープンした。以来、焼き肉店、漫画喫茶、セルフ鉄板焼き店などをさまざまな業種の店を手掛けたが、閉店、開店を繰り返した。現在は7業態、総店舗数8店舗となっているが、これまでに閉店した店は20店舗以上に及ぶ。閉店した店の共通項はどのようなものかと尋ねたところ、森口氏は「見切り発車」と言った。
「周りの同業者を見ていて、店舗展開とは簡単なものだと勘違いをしていた。業態のつくり込みも欠けていた」と言う。
いつしか主要な展開エリアが神田となったが、神田で商売することの難しさに直面し、それをいくつも乗り越えてきた。
それを象徴するエピソードは10年前に神田の全店でランチ営業を止めたこと。小さな事業所の多い神田はランチタイムが稼ぎ時のように思われるが、稼働するのが12時からの１時間、地元に住んでいる人が少ないためにパートタイマーも集まりにくい。朝から終電まで働く社員もいて社内的に疲弊していたことを感じ取り、売上が減ることを懸念しながらもランチを止めた。すると全店の売上が増えた。こうしてディナー帯に集中することの重要性に気付いた。
「広島東洋カープ」にこだわるブランディング
業容はお好み焼き店を主力に展開していったが、この業種は職人を育てる必要があること、さらに属人的な要素が多いことから、神田西口の店を残して他は全て譲渡した。
これは約10年前のことで、同店を「広島東洋カープ」（以下、カープ）をコンセプトにつくり込んで、店名も「Big-Pig神田カープ本店」（70坪120席）とした。店内の最も目立つ場所に1975年10月15日にカープが巨人軍を破り、リーグ初優勝を果たした時のスコアボードを張り付けた。店内にはモニターを10台設置して、広島カープの試合を放映。また、広島県庁や中国電力のCMも放映している。
同店の特徴は、コース料理の注文比率が50％を超えていること。コースのメインは飲み放題込みで3800円、客単価は3200円程度となっている。お好み焼き店は一般的に客単価1000円台といった簡素なものになりがちだが、同店ではサイドメニューとアルコールを組み合わせることによって、高い客単価を実現している。
オフシーズンには元広島カープの選手を招いてトークショーを行っている。ここではサイン会、来場者とのツーショットの撮影会となる。このように元選手とフルに交流するイベントを行っている店は広島にはもちろん全国にもないという。そのためにこのイベントに広島からやってくるファンもいるという。応募は100人限定、会費は6000円でコース料理に飲み放題が付く。この日ゲストの人にも飲んでもらうので「他では聞けない、チームの裏話」が飛び出ることもあって大変好評だ。
同店でこのようなブランディングを始めてから、世間で「カープ女子」という言葉が生まれた。そしてカープがリーグ３連覇を果たした。そこで同店は年間80に及ぶ媒体から取材を受けるようになった。
こうして森口氏は故郷「広島」への恩返しを意識するようになった。2004年10月の新潟県中越地震や2011年3月の東日本大震災でボランティア活動を行ってきた森口氏は2018年8月の西日本での記録的豪雨の後に被災地へのボランティア活動を行った。この様子をfacebookで見ていた人たちから同店に義援金が集まり、また同店で飲食業界関係者が集まって被災地支援のチャリティ飲み会が開催された。
このような経験を重ねることに従って、森口氏はスマイルリンクルが得意とする世界は「神田」と「広島」であると確信するようになっていった。
2017年10月におでんと肉豆富料理「酒場ゴロー」をJR神田駅前にオープンした。店頭に大きく「悪しき習慣『お通し』を廃止しました」と掲げる同店は、肉豆腐やおでん、肉料理といった一般的なメニューを個性的なものにして、年中無休、15時オープン、10坪２フロアで月商800万円となっている。土日が弱いと言われるビジネス街の神田において、土日ともにカップル客を多く集めて一日20万円を売っているということだが、これはこれまで「神田」にこだわって営業を続けてきたことによって、この街を熟知していること証であろう。
そして、この繁盛店の向かいに登場したのが「チンチンゴロー」の物件であった。森口氏はここに是非出店したいと考えた。その狙いは「神田に資産をつくる」ということだ。
「この意味は、それは神田に働くビジネスマンが誇りを持てる店をつくるということ。当社が神田で商売を重ねてきたことの恩返しです」
具体的には現在フレンチビストロとしての営業はディナータイムだけだが、日中は会議室として提供していくという。店内にフリーWi-Fiを導入し、スクリーンも用意して、2020年春頃よりスタートさせる。「デザイン性に富んだチンチンゴローの空間の中で進められる会議は、既存の殺風景な中で行われるものよりも、より大きなミッションを遂げてくれるのでは」と森口氏は語る。
森口氏の「神田への恩返し」は、飲食店の営業にこだわらず他の業種へも興味が広がっている。「街の資産になる立地であればコンビニや文具店など飲食店以外も想定している」と語るが、神田を得意とするスマイルリンクルが行うことによって、「土日が弱い」ことが定説となっていた神田に、「酒場ゴロー」のように土日にカップルがやって来る繁盛店を営んでいるように、神田の街を変えていく存在になっていくのではないか。
神田での飲食店の出店は、メニューがドリンクだけの店を検討しているという。敷地は10坪に満たなくてもよく、梅ないしレモンの品質や活用方法にこだわるというもの。容器はプラカップも想定し、タピオカミルクティーのように神田の街を飲みながら歩いてもらうというものだ。
スマイルリンクルは神田で創業して今年25周年を迎えている。森口氏の「神田の資産となる」という思いは、神田という街をつくり変える存在になりうるものとなるだろう。
