東急田園都市線・大井町線の二子玉川駅に降り立つと街並みが大きく近代化していることに驚く。これは駅の東側一帯で1982年から開発が始まった「二子玉川ライズ」が2015年に完成したことによるものだ。商業施設からオフィス、ホテル、高層住宅がそろい、平日休日を問わず沿線の街から二子玉川を訪ねる人が増えてきている。

 

二子玉川は通称「ニコタマ」と呼ぶ。こう呼ばれるようになったのは、1969年に玉川髙島屋S・Cができたことがきっかけだ。国内初の郊外型ショッピングセンターとして開業したもので、ここよりニコタマは商業の街となった。

 

「自分が生きていくために、やりたいことをやろう」

玉川髙島屋S・Cの裏手はニコタマと呼ばれる前からの住宅街で落ち着いた雰囲気が漂っている。その一軒の地下に「バニラビーンズ」というバルがある。へらで重ねるようにつくられた壁の店内はチェーン店にはみられない温もりを感じさせるが、これらの内装は開業した当時の仲間で手づくりしたのだという。

 

同店を経営するのは有限会社フュゼ(本社/東京都世田谷区、代表/中村志郎)。代表の中村志郎氏は1971年6月生まれで、同店をオープンしたのは1996年のこと。

有限会社フュゼ、代表取締役の中村志郎氏

 

中村氏は父親の仕事の関係で幼少期をオーストリアのウイーンとチェコスロバキアのプラハで過ごした。ウイーンではホームパーティが一般的に行われていて、プラハでは大家さんが自分の家を自分でつくってしまうというほどのDIYの達人だったという。このようなアットホームとDIYの感覚はこの幼少期に身に付いたようだ。

 

その後日本にやってきて小学校から大学まで進むが、いざ就職となった時に「自分はサラリーマンに向いていない」と感じていた。しかしながら、「サラリーマンを経験することも人生の中で重要なことだ」と考え重工業の会社に内定した。

 

就職する年の1月に阪神淡路大震災(1995年)があった。配属されたのは大阪本社だったがすぐに神戸本社に異動、災害復旧プロジェクトチームに配属された。

震災後の神戸には「ゼロからつくろう」という空気が漂っていて、中村氏はそれをとても頼もしく感じたという。復興していく様子にじかに触れて、「自分がこれから生きていく以上、やりたいことをやった方がよいのではないか」という思いが膨らんでいった。

 

そこで会社を辞めて東京に戻り、学生時代から仲のよかった脱サラ志望の友人を訪ね「何かを始めよう」と会話を重ねた。そこに中村氏のいとこなども加わり、飲食店を開業することになった。中村氏は「学園祭のノリだった」と振り返るが、これが今日同社の文化になっている。

 

森の小動物がつくる「巣」のような店舗空間

二子玉川の物件は24坪。大家さんが新築した家屋の地下でスケルトンだった。「自分たちの思い通りに店をつくることができる」ということで大層気に入り、素人の自分たちには手に負えない設備関係は業者に依頼し、それ以外は自分たちで手づくりした。

自分たちで手づくりした店舗が独特のアットホームな空気感を醸し出す

オープンした当時、二子玉川の街は大きくなりつつあり、不動産関連の人から「将来は吉祥寺のようになる」と言われていた。それが今日では、吉祥寺とは異なる趣の近代的な街となった。「バニラビーンズ」では土日もお客さまでにぎわうようになった。メニューは無国籍で食事を楽しむお客さまの金額4000円近くとなるが、翌朝3時まで深夜営業していることから客単価は3200円、3300円あたりとなる。

 

2号店は2012年11月、目黒に「シバフ」をオープンした。カウンターの和食店の居抜きで19坪。「バニラビーンズ」の運営で「フュゼらしさ」が見えていたことから、フュゼオリジナルの店をつくろうと考え、その造作を解体するところから店づくりに取り組んだ。

 

さらに2015年6月、大崎に「くあるた」をオープン。この店はフュゼの従業員の一人が「店長になりたい」と申し出たことがきっかけであった。「では、物件は自分で探してきて」ということで、再開発を終えた大崎のビル街の奥でスナックを営業していた17坪の物件を見つけてきた。ここから店を手づくりしていったのだが、この過程を中村氏がfacebookに投稿し、店が少しずつ飲食店としての形ができ上がっていく様子に多くの人が魅入られたようだ。筆者もその一人である。

 

「くあるた」は着工してから完成するまで3カ月、保証金、敷金、工事期間中の人件費などで800万円を要した。これを業者に委託した場合、工期は1カ月で済むが開業までのコストはこの倍を擁するのでは、と試算する。

 

店を手づくりする理由は、「予算がないから」(中村氏)ということだが、実際にこれらの店を訪ねると「有機物」としての存在感がある。例えば、森に生息する小動物が自分たちでつくり上げた「巣」のような感覚。これがフュゼならではの魅力を発信して、ここにお客さまは「おちつき」を感じているのではないだろうか。このようなお客さまが集まっていることから、フュゼの店の中はアットホームな空気が濃い。

 

事業継承で魚介料理の大衆業態を運営

さて、フュゼに新しい事業が加わった。それは「築地魚一」の営業、魚介料理をメインとする大衆的な和食店で居酒屋営業も行う。

同店は2017年に事業継承したもの。オーナーは複数店舗を展開していて、そのうちフュゼは江戸川橋と西葛西の店舗を従業員を含めて譲受した。客単価はどちらも4000円を超えている。

地域に根付いた雰囲気が漂う「築地魚一」江戸川橋店

筆者は江戸川橋の店を訪ねたが、男性客、女性客とも50代で、近隣の勤め人のグループが大多数を占めていた。自分たちが憩う場所としてすっかりとなじんでいる感じだった。

店頭にある「圧倒的刺身満足主義」と昭和を感じさせる看板が目を引くが、その通りにメニューは刺し身が充実している。1380円の「刺身の3点盛り」が人気だ。

刺身のお値打ち感でリピーターを掴んでいる

 

フュゼの店舗となって2年以上が経過したが、店の運営は前のオーナーの時代からの従業員が行っている。いきなり店を大きく改革するのではなく、中村氏が少しずつ現場に赴いては自分の人となりを現場の人に理解してもらうことが重要だと考えているからだ。ここにもフュゼ流の文化が醸成されつつあると見受けられた。

 

筆者が考える「フュゼの文化」とは「任せる」ということ。トップダウンで指揮を執るのではなくなく、現場の運営は店長の裁量を厚くしている。出店に関しても、「店を出したい」という人が物件を探してくるというパターンである。中村氏はこう語る。

「初期投資が高くなれば、経営者が店長に求めることが高度になっていきます。そこで、店長の裁量権を高めるのであれば、のんびり好きなように店を運営する機会をもたらすことが重要だと思います。だから、店に大きな投資をかけるべきではない」

創業から店を手づくりしているのも、事業継承した店の運営の在り方も、業態は異なっているとはいえ、「フュゼの文化」で一貫している。

 

「フュゼらしさ」が醸し出す憩いの空気感

中村氏は、フュゼという会社の中に「組織的なもの」が生まれることや、事業拡大を唱えながら、事業規模が滞るような状態を回避したいと考えている。これからも「店を出したい人が物件を見つけてくる」といった店舗展開のスタンスは崩さずに、「どんなに店を増やしても10店舗程度ではないか」(中村氏)という。その理由は、中村氏が飲食業を25年間

営業してきて培ってきた哲学によるものだ。

 

「食の在り方はこれから10年20年で大きく変わっていくことでしょう。コンビニや中食の食へのアプローチも著しく多様化していきます。このような中で飲食店が存在する価値は、お客さんが居心地がいいと感じることです。それがない限り、食事をするのは『家でいい』という価値観になります。このような環境の中で、当社は店長や従業員の感性によって光るものが培われて、そこにお客さまが共感してくださってきた。そこで、これからもこのような『フュゼらしさ』を継続していきます」

 

だから、例えば客単価を上げるために「はやりのメニュー」を取り入れるということは行わない。はやりのメニューを観に行くが、それはフュゼの文化や感性を磨く上での一部に過ぎない。フュゼの店で憩う人々は、このようなフュゼらしさが醸し出す空気感に引かれているのだろう。

店舗情報

店舗名 バニラビーンズ
エリア 二子玉川
URL vanillabeans.owst.jp

運営企業情報

企業名 有限会社フュゼ
URL https://www.facebook.com/fusee.company/about

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