8月4日、東京・渋谷の駅間近に「渋谷横丁」ができた。東京の新名所で、プロデューサーは浜倉好宣氏(浜倉的商店製作所代表)である。

「飲食店プロデューサー」という役割は、飲食店の空間を魅了するものへとクリエイトする存在である。浜倉氏の場合は、空間が美しい、カッコいいという価値観ではなく、「人の心を揺さぶる世界」だ。

浜倉氏が飲食店プロデューサーとして頭角を現したのは2006年6月、東京・門前仲町の飲食店街にオープンした居酒屋である。漁村の漁具置き場のような内装で、25坪77席とギュウギュウに詰め込んだ店だ。

当時浜倉氏は外食企業勤務から独立したばかりで、知人から魚屋さんを営んでいたという52歳の男性を紹介された。その魚屋さんは街の人にとって欠かせない存在であったが、スーパーが台頭することで閉店することになったという。

「この齢では、再就職もなかなかできない。家にいても何もすることがない」

このように嘆く相談相手の話から、「自分たちもいずれ“おやじ”になっていくのだから、この先輩たちが輝きを失わないように、そして次世代にとって明るい未来をつくろう」と心に念じたのだという。

こうして誕生した同店は「おやじが再度イキイキと働いているからこそ生きている業態」として表現された。これが端緒となり、浜倉氏は「再生」の世界に入っていく。

恵比寿駅より至近、昭和の公設市場を「横丁」に変えた
客層は20代30代中心。オープンして10年以上たっているが客層はこの世代のままだ

 

「恵比寿横丁」で「浜倉ワールドの横丁」を築く

浜倉氏の存在感を不動のものにしたのは、2008年5月にオープンした東京・恵比寿の「恵比寿横丁」である。かつての公設市場跡で、地権者が入り乱れて誰も再開発をしようと思わなかった物件を2年がかりで交渉をまとめ上げ、独特の「浜倉ワールド」で空間を表現した。その後恵比寿横丁は増床し、今日の連日人でごった返す飲食ゾーンとして定着するようになった。

筆者は外食記者歴三十数年であるが、浜倉氏のことを殊更注目している。実は、浜倉氏は今日の飲食店プロデューサーとしての地位を確立する以前に「飲食業界で最も先端的なこと」を行っていたからである。今日は「ド大衆」だ。この大きなギャップがあるからこそ、比類ない「浜倉ワールド」を導き出しているのだろう。そこで、浜倉氏の今日の地場を築き上げた多彩なプロフィールを紹介しよう。

浜倉氏は1967年生まれ。神奈川県横須賀市の出身、幼少の頃家族は京都に移る。16歳のときに「餃子の王将」でアルバイトを始めた。浜倉氏の「人生飲食業」はここから始まった。

高校卒業後、飲食店に勤務し、20代そこそこで和食店の店長を経験する。20代半ばで弁当店のチェーン本部に入り、加盟店の人間模様を見た。

弁当店チェーン本部を辞めた浜倉氏は、旅館の仕事を手伝うようになった。そこに出入りしていた庭師と親しくなり、その人が営む和歌山・南紀白浜の民宿で強烈な体験をすることになる。現地に着いてすぐにボートに乗って魚釣りをした。その後、市場に行き自分たちが食べたいものを調達。民宿に帰ってからお風呂に入り、夜これらを炭火で「残酷焼き」にして食べた。この一連の心地よい体験が浜倉ワールドを象徴するメニュー「浜焼き」の原体験となったという。

そして、飲食業の潮流を変える、二つの企業における成長の中枢を経験することになった。

 

独立前に体験した二つの超個性派企業

最初に入社したのは大阪のちゃんとフードサービスである。1997年、浜倉氏は29歳であった。同社の岡田賢一郎社長(1965年生まれ)は飲食業のニューリーダーであった。同社が展開する「ちゃんと。」は、当時の居酒屋シーンの間隙をついた。大衆居酒屋チェーンはこぎれいにまとまってしまい、もう一方は旧来型の中高年を対象とする個人店である。しかしながら「ちゃんと。」のスタッフは、みな若く元気がみなぎっていた。メニューは常識にない創作料理。空間プロデュースは今や世界的に著名な建築デザイナーで当時20代の森田恭道氏である。

同社は関西圏にとどまらず首都圏に進出した。浜倉氏も同社の幹部として東京にたびたび訪れる機会が増えた。首都圏の飲食で驚いたことは「売上の高さ」であった。

東京における飲食の可能性に魅力を感じた浜倉氏は、東京の飲食にチャレンジすることにした。

浜倉氏は2000年からフリーで店舗プロデュースをするようになり、1年後フードスコープ(後にDDホールディングスが吸収)に入社した。当時のフードスコープは東京・恵比寿に1998年5月にオープンした「今井屋總本店」が高級焼き鳥店の繁盛店として注目されていた。客単価6300円、1フロア15坪、1~3階で月商2700万円であった。

同社代表のの今井浩司社長(1968年生まれ)は、こだわりを徹底し、つくり込みが細かい飲食店を展開していた。美食(グルメ)研究所を設けて、世界から届いた素材の組み合わせにより新しい食感とうま味をつくるということに独自の研究を重ねていた。また、当時マイナーだったオイスターバーをメジャーにした。

そして、同社はアメリカのニューヨーク(NY)を目指した。確保した物件は当時再開発が進んでいたトライベッカのビル1階と地下1階で、ワンフロア200坪×2の400坪。しかしながら、出店に至るまでに4年かかった。

そのレストラン「MEGU」は2004年3月にオープンした。すぐにNYセレブの御用達となった。トム・クルーズやロバート・デ・ニーロ、当時ヤンキースの選手だった松井秀喜とか、当代の著名人で連日にぎわった。

 

「浜倉ワールド」は時代を超えて客層をつなぐ

さて、フードスコープを辞めた浜倉氏は、冒頭の2006年のストーリーとなる。「再生」路線の集大成と言える「恵比寿横丁」が偉大なるショールームとなり、浜倉さんは時代の寵児となっていく。東京・山手線の主要駅近くには浜倉ワールドが存在する。特に有楽町から新橋に至るエリアがそれを象徴している。

帝国ホテルの裏に広がる「有楽町産直横丁」、230坪の圧巻の「浜倉ワールド」
全国の生産者との交流は有楽町産直横丁の前身、「有楽町産直飲食街」から盛んになっていった
「浜倉ワールド」の横丁の規模が大きくなっていくたびにダイナミックさを増していく

 

大きなターニングポイントとなったのは、2010年11月にオープンした「有楽町産直飲食街」である。JR有楽町駅から新橋駅のガード下に127坪、405席という規模もさることながら、これまでに地方の生産者や自治体から相談を受けていた、各地の魅力的な食材を一斉に販売する場をつくり上げた。有楽町には地方各県のパイロットショップがあり、地方自治体の担当者が東京を訪れて、地元産品の消費の動向を察知する上でとても便利な場所でもある。これまで得意としてきた「再生」は、日本の食材流通を活性化させる役目も担うようになった。

ここは耐震補強のためにクローズするが、2年後の2019年12月「有楽町産直横丁」となって再びオープンした。規模は倍増して230坪、900席。生産者直結の専門素材居酒屋とご当地酒場11店舗で構成されている。産地直結のアピールが一段と増えている。浜倉氏によると「生産者と交流するたびに生産者が増えていく。こだわりの生産者の友人は、やはりこだわりの生産者で、たとえば岩手の鶏肉の生産者が青森のニンニクの生産者を連れてくる」という。志の連鎖反応と言っていいだろう。

そして、2020年8月の「渋谷横丁」である。浜倉氏の〝心地よさ″の原体験である「浜焼き」、大衆が憩う場の「酒場」「横丁」、そして生産者の情熱を届ける「産直」を、今日、そしてこれからのスタンダードなものとしてよみがえらせている。こうして日本人の心の中に昔から存在する素晴らしい文化を次代につないでいく。それを体験型、情報発信型の「エンタメ横丁」によって持続可能なものにしていこうとしている。

実際に「恵比寿横丁」を訪ねてみればよい。客層の主流は20代30代だ。オープンした当時は10代で酒場とは無縁の若者たちが、今、メインの客層となっている。「浜倉ワールド」は客層をつないでいるのだ。そして「渋谷横丁」もしかり、20代30代がこの空間の主役となっている。

時間を経るごとに「浜倉ワールド」はますますダイナミックになっていく。こうして東京には人間性の「再生」と志をつなぐ場が確実に増えていく。

東京・日比谷にある浜倉ワールドの一つ「日比谷産直飲食街」。祭りの灯りか? イカ釣り船の灯りか? 照明と色彩の絡み合いに胸騒ぎがするような独特の世界

 

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店舗情報

店舗名 渋谷横丁
エリア 渋谷
URL https://www.hamakura-style.com/

運営企業情報

企業名 株式会社浜倉的商店製作所
URL https://www.hamakura-style.com/

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